米作りを始めて、6〜7年目ごろかな…。地上部の稲姿よりも、根に注目し始めたのは。
誰でも目に見える地上部の稲姿しか注目しないけど、根がしっかりしないと立派な稲姿にはならない。その根を良くするには、土を良くしないと。
プラウと出会って、それが可能になったかな。
農業とは情熱と想像力!
プラウを水田に入れて、深耕するという先輩方の想像力はすごいよね。
稲わらという有機物を深く鋤き込み、末代まで作物の獲れる最高の土を残す!それだけを考えて、米を作っています。
スガノ農機(株)主催 第16回有機物循環農法体験記 発表作品
平成17年10月下旬。収穫の終わった田んぼの土が、反転され、みるみる真っ黒に変わり、朝日を浴びた土は真っ白な蒸気をあげて目を覚ました。
プラウ耕1年目、深耕25cm、作業面積30町。慣れない作業はムチウチの経験のある私の首を苦しめた。が、「これが土を耕すことなのだ。」という充実感を、就農9年目にして初めて知った。
私の住むこの町は、りんごと稲作の複合経営者が多く、肥沃な土壌、津軽平野は県内でも有数の穀倉地帯である。 しかし、藤崎町の圃場区画は2反、3反が多く、1町といった大区画圃場はまれで、これから訪れるであろう大規模経営には、畦を撤去した圃場の大区画化と低コスト栽培技術がなんとしても必要だった。
「代はかかなくても、田植えは出来るよ。」
平成15年秋、プラウ実演会での外崎昭三氏(青森県中里町)の言葉は衝撃的だった。
プラウ耕起後、レーザーレベラー、バーチカルハローで整地。それに水を入れて田植えが出来る。「空が落ちてくるような話だ。」と私は思った。
しかし、話をしていくうちに、同氏の稲作哲学に翻弄された。また高校時代の同級生と知ったうちの親父も「農業経営を大きく変えることが出来るのではないか?」ということから、藤崎町、また私たち家族にとっても初めての「無代かき移植への挑戦」となった。
平成17年秋にヤンマーCT1001と18インチ4連リバーシブルプラウ、18年春に直装レーザーレベラー5mと、バーチカルハロー3mを購入した。
平成18年春、すべての用意は整った。
昨年の秋、プラウをかけた圃場は、春先の陽気な気候と春風で、容易に乾くはずだった。しかし、青森は予想外の低温、長雨に見舞われた。プラウをかけた圃場が乾かない…。
プラウ耕1年目の、雪解け水をたっぷり含んだ単粒化された土は、お天道様と風の力がないかぎりなかなか乾かなかった。
ようやくレベラー作業には入れたのが4月27日。早いところで圃場の入水時期は5月5日。10日間の勝負だ。外崎氏の指導を受けた後、朝4時から夜7時まで休みなしでレベラーをかけ続けた。
しかし、レベラー1年目の私にとって、点在する30町という面積は大きすぎた。結果約13町のレベラー作業に終り、他はバーチカルハロー、ロータリーをかけて平成18年の耕起作業は終了した。13町のレベラー作業のうち、無代かき移植可能な圃場は5町だった。その他は細土が粗かったり、均平がとれていなかったりしたため、代かき移植をおこなった。
無代かき移植の生育状況は、白い大量の根を見れば簡単に想像できた。ガス沸きもなく、団粒化された土の間を、根が縦横無尽に走っていく様子がわかる。また、作土層が深いのに沈まない圃場になったことも大きな魅力だ。それは、圃場が大区画化になっても、ぬからずに追肥作業が容易にできることを意味している。
平成17年12月、東北土を考える会の収穫祭で、矢久保英吾氏(秋田県大潟村)とはじめて話をし、乾田直播栽培の魅力を大きく感じた。
運よく、スガノ農機より実演機を借りることができ、3反6セの圃場に「つがるロマン」を5月9日に播種した。
津軽地方では、湛水直播の経験があるが、乾田直播は見たことも聞いた事もないというのがほとんどだった。
乾田直播の魅力は、点播による稲の生育がよいことなどいろいろ挙げられるが、一番のそれは、「整地から播種までシューズを履いて出来るところ」にある。泥に入らなくてもよいし、長靴を履かなくてもよい。
若者にとってそれは革新的な農業技術である。それはトラクターや作業機にも言えることで、クローラーなどの寿命は格段に延びるはずだ。
生育の状況は、レベラー作業の未熟さから、外周の生育はまばらなものの、内側にいたっては素晴らしい生育を見せてくれた。特に、1週間に1枚ずつ葉を出していく規則正しい生育のよさと生命力の強さは、移植の稲には見られない本来の稲姿を私に見せてくれた。
現段階で乾田直播を成功させるには、乾田直播圃場の団地化が必要であると思う。隣に移植の圃場があれば、入水時にどうしても水が浸水してくるし、溝を掘ったとしても、心配で作業に専念できないだろう。
大規模経営になったとき、乾田直播圃場を団地化し、播種。1.5葉期になったときに、本水を開いて入水する。これが理想だろう。無代かき移植同様、すべての圃場を乾田直播にする必要はないだろう。作業効率や圃場状態にあわせて、いろいろな稲作技術を学び、工夫していくことが大事だと思う。
今年初めてレベラー作業をしてみて感じたことは、小さい圃場はプラデラで代かき移植、大きい圃場はプラウ後に徹底してレベラーをかけ無代かき移植、というふうに作業の分散をはかることが大事だと感じた。点在する2反、3反の圃場にレベラーをかけるよりも、4反以上の大区画圃場を狙ってレベラーをかけていくほうが作業的に窮屈ではない。
すべての圃場を無代かき移植にするには、かなりの期間と天候の運がなければ無理だった。今年は、そのシミュレーションが出来ていなかった。
来年は、今年の失敗が活かされる年であると思う。レベラー作業のコツは今年でほぼつかんだ。来年は、15町の無代かき移植を目指し、その圃場を今からピックアップしておくことが大事だ。
もう一つ反省点として挙げられるのが、秋のプラウ耕である。
来年はこれを、春のプラウ耕に切り換える。
今年の秋は、徹底した排水作業に重点をおいて、サブソイラと溝掘り(明渠)を行う。現在私の圃場で、暗渠が施工されている圃場は3反のみ。それを考えると、春、いかに雪解け水を圃場の外に排水して圃場を乾かすか、というところが一番重要だと感じた。
春は育苗ほか、いろいろな作業が一気に重なるため、青森で春のプラウ耕は無理と感じる方々が多いが、私はこれに挑戦する。来年は秋のサブソイラ、溝掘り、3月の硬雪時のプラデラ(雪割り作業)によって、「春早く入れる圃場づくり」を目指す。
就農したのはちょうど10年前。小学校から大学まで、バスケットボールというスポーツに明け暮れていた私を、両親は農業一本で大学まで行かせてくれた。その両親の仕事である農業に、興味と誇りを持っての就農だった。
今思えば、そのころ、親父が見せてくれた「ヤンマー・トンボ会誌」に秋田県大潟村の無代かき移植が掲載されていた。CT95にプラウとレーザーレベラーのマッチングだった。
それから9年間、春に肥料を散布して、ロータリーをかけて、水を入れて、代をかいて、苗を植える。そんな当たり前の稲作を行ってきた。それが稲作だと思っていた。
昔の人々は鍬や、馬に鋤を引かせて、深い作土層をつくってきたと親父が言う。それがいつのまにか作業効率のみを優先させて米づくりを行うようになった。そして、結果、作物のとれにくい土をつくってしまった。このままでは、次の世代の後継者に、よい作物のとれる土は残せない。下層で休息した土と、上層で疲労した土を入れ替えるプラウ耕は、日本人の「命の源である米」をつくり続けていく上で、欠かせない作業なのだと感じる。
そして縁あって、スガノ農機や、それを使っている先輩方との出会いが、私に「農業とは、情熱と想像力」というものを教えてくれた。固定観念を捨て、情熱と想像力を持って農業に取り組むことが重要なのだ。10年も前から、プラウを水田に入れて経営を行ってきた先輩方の情熱と想像力に、私も負けていられないと思った。
就農10年目にして、初めての土作りは先輩方のそれにくらべると足元にも及ばない。
しかし今年、平成18年は、私達にとって土作りという観点から稲作を見つめなおし、結果これからの稲作に希望の持てる年になった。ややもすれば土から上の部分ばかりに気を取られてしまう私達であったが、目に見えない土の中に興味を持たせてくれたスガノ農機との出会いは、これからの私達家族の農業経営にとって大きな糧となるはずだ。
平成18年2月、東北土を考える会総会で、ある方と同じ部屋になった。白濁したどぶろくを飲みながら、その方は夜遅くまでプラウとレベラー作業のコツを教えてくれた。家に帰ってから、あることが気になって10年前の、あの「ヤンマー・トンボ会誌」を広げた。そこには若かりし頃の、相馬喜久男氏(秋田県・大潟村)が載っていた。
10年後、私は恥じない農業経営が出来ているだろうか?胸を張って農業哲学を語ることが出来るだろうか?一瞬、そんなことを考えさせられた。
プラウ耕1年目の作土層はまだまだ浅いが、目標は10年後30cm、20年後50cmの作土層である。日本人にとって、米は命の源である。異常気象、害虫にも負けない、反収1トン稲作を目指して、これから土作りを極めていきたい。そして次の後継者になるであろう4歳の息子が農業に興味を持ったとき、彼に最良の、最高の土をプレゼントしたいと考えている。